美大生リョウの日記

繊細な美大生が日々考えていること

成功

おはようございます。

 

大学人二年ぐらいの時から男として生まれたからには成功しなければ損、負け組という志が強くなってきました。今のところ僕が考えている成功とは、自分の情熱を捧げるコンテンツで年収1000万以上(もしくはそれ以上)稼げるようになることです。

 

ただ今の生活では程遠いような気がしてきました。ニートというレッテル貼りが一旦なされます。それはこれまでの人間関係、そしてこれからの人間関係を壊していくでしょう。なんと残酷なことか、でも普通に就活頑張っていた人からすれば自業自得のバカに見えるんだろうな。

 

不良少年が更生して偉くなったストーリーは賛美されがちだが、一番偉くてかっこいいのは真面目にコツコツできている人間だ。

 

そうなるには、真面目コツコツ人間の真似をするしかない。

 

できるかどうかよりラクに考えてやる。最近自分で見つけた、行動力を上げる方法だ。

メモはなぜ大事か

おはよう。

 

メモはいいと散々言われているが、なんでなのかいまいちわからなかった。そもそもメモをするのは記憶力がないからで、記憶力を増やせばいじゃないかとか見返さないいし意味ないと思っていた。

 

でも昨日の夜、自分の頭の中で生まれた思考がいかに儚く消えていくかを知った。

入浴中、これからの生き方について自分の価値観をこれまでの経験やきいいた話からあれこれ定義づけていた。入浴が終わる頃には

 

「俺は最強だ。この先どんなことが起きてもこのマインドなら生きていける!!』

と確信していた。

 

しかし、悲劇はすぐ起きた。

やることを終えベッドに入ったがうまく寝付けず、さっきお風呂で思いついたことを復習しよう!と脳内で思い出そうとした。

するとどうだろう。

 

「あれ、何であんなテンションあがってたんだっけ、、、。」

 

なんと、輝かしい思考の結果は疎か、何について考えていたのかすら、入浴後のリラックスタイムで全て忘れ去っていたのである。

 

「あんなにいい思考を生み出したのに、、、。」

 

僕はその後真っ暗な部屋で、月明かりを頼りに焦ってノートに走り書きしましたとさ。

 

メモは思いついた時にしよう。(そして残しておこう)

クリエイターとして成功している人はみんな頭を使っている?

こんにちは。

世間では東京藝術大学の卒業制作展が話題になっていますね。格は違いますが、僕も同じ美大の人間として興味深く見させてもらっています。

 

学生時代はグラフィックデザインを勉強していて、新しいサービスとか商品をコンセプトから考えてデザインして出力するってことをたくさんやってました。

絵を描く方が好きな僕からしたら、こんなに楽しいこと他にない、って感じではなかったけど、効果的な色彩の組み合わせとか文字間と文字の間隔の整え方とか勉強できることはすごいあって、それは今の作品制作でも活きている。

 

でもやっぱり、時間を与えられて好きなことしていいよと言われた間違いなくイラレじゃなくてクリスタかフォトショを開いて絵を描くと思う。ロゴを一つ作るよりロボットを一つ生み出したい。理由は簡単でデザインは僕にとって表現の形としては窮屈すぎるからだ。

 

なにを一丁前に、とそう思われるかもしれないが両方やったことがある人ならわかると思うけどデザインすることは絵を描くよりも圧倒的に自由度が低い。

 

例えばあるお菓子メーカーが新しく開発しようとしている「安めで誰の手にもとってもらえるようなお菓子」のブランディングをするとする。

 

この時デザイナーに求められていることは、お店に来た消費者にとって「安価で買いやすそうだ」という雰囲気を感じさせつつその商品の特徴を一目で説明することだ。

 

「誰の目にも止まるようにしたいなら、見た目だけゴージャスにして人の目を引けばいいじゃない?」そう思うかもしれないが、そのやり方はこの場合あんまり良くない。

 

その商品が値段より高く見えてしまって、逆に手を出しづらくなってしまうからだ。「安価で買いやすそう」「目に止まる」この両方を満たした上で、色や形、大きさをキレイに(すげぇ大変)整えてやっと一つのブランディングはできる。

 

もう考えることだらけである。

絵は?

気持ちいいと思った線を引いて、色を置けばいい。

買いていて思ったけど、デザインが好きなやつは思慮深くて頭のいいやつなのかもしれない。

 

絵も考えることいっっっっぱいあるけどね!?

 

クリエイターとして活躍したいのであれば、どちらせよアタマを使わなければならないんですね。

 

次は何を作ろう。

アニメ原画集を見て思ったこと。

3個上で別の大学からモノづくりがしたくて編入して来た友達が貸してくれた、新劇場版エヴァ破の原画集を読んだ。

 

アマプラやネトフリで作画すげぇ‥と言ってただ眺めていただけじゃわからなかったアニメーターの熱意と情動がそこにはあった。

 

エヴァの社会現象以降、90年代のアニメを筆頭とするヲタクの熱狂的な文化とその雰囲気は、アニメに関心のない人からすると現実から目を背けている滑稽な人々に見えたかもしれない。

 

実際、現実ではありとあらゆることが起こる。朝が来たら会社や学校に行かなければならない。時期が来たら自分の人生に決断を下さなければならない。そんな苦しい時でもアニメは晴れやかで豊かな世界を僕たちに見せてくれるから、病みつきになって堕ちていくのかもしれない。

 

でも作る側の見ている視点はもっと高い。

目の前の紙の束にどう命を吹き込むか、あらゆる視点から考えている。それは人間の骨格とか筋肉のつき方に留まらずふとした時に出る人間の汚さ、欲望、そういった汚い部分を巧みな技術で落とし込んでいる。

 

他人の不幸は蜜の味というように、そういう普段見られない汚い部分は人を惹きつける。スキャンダルとか大好物だろ。

 

アニメがエンターテイメントの一環としてテレビとかで放映されて観ている分には、感動的でおもしろ愉快な世界だ。でも一度作る側に立って観てみると、それはこの世の森羅万象を理解した、文字通り「神」によって創られているのである。

 

また、エヴァ見直したいな。

終の生活 極

とうとう堕落した生活もこれ以上にないくらい極まってきた。

 

日中のほとんどはゲームをするか思い入れのある作品を見るかで、好きな時間に好きなものを食べ、いやなことがあったらポルノを見る。絵は気が向いたときに描いて、やることはなくなったら外へ出て親や親族がくれたお金で娯楽を謳歌する。

 

控えめに言わなくてもクズである。

大丈夫じゃない、更生しなければ周りからどんどん人が離れていくようになり人生が不幸になる。それはさすがにいやでしょ?

 

生きろよ。